旅メーター
全ての駅を訪れた23区の数【0/23】
虎ノ門の中華料理店。
御成門から虎ノ門方面へ歩いて行くと、ついさっき倒立のお兄さんに教えてもらった愛宕(あたご)神社を見つけた。聞いたことのある響きだなと思っていたら、漢字を見て理解した。愛宕山だ。23区でいちばん高い山。杉浦日向子さんの『江戸アルキ帖』でも、愛宕山が紹介されていた。
愛宕山からは、江戸湾と江戸城が見えるので、江戸の景色がいっぺんに自分のものになったような気がする。—新潮文庫『江戸アルキ帖』 杉浦日向子
海も江戸城も町並みも、とってもいい景色だったんだろうなあと想像すると、ワクワクしたのだった。いまは高いビルに囲まれてしまったけれど、愛宕神社は残っている。あとで「出世の石段」を登ることにしよう。
あとにしたのは、空腹だったから。近くのお店を探してみる。今回は、できるだけコンビニを使わないのがマイルール。お腹が空いたら食事処に。喉が渇いたら喫茶店に。贅沢するお金はなくても、入ってみようと。
中華料理店にしてみた。とても綺麗な内装で、虎ノ門のオフィス街だなあと感じられる。その代わり土曜日だったので、お客さんは閑散としていた。平日のお昼なんかは、ものすごいのだろう。
美味しそうなランチメニューが並ぶ中、『四川本格麻婆豆腐』にした。『本格』の文字が赤く強調されていて、惹かれてしまった。
対応してくれた店員さんは中国人の男性で、一人で入店したぼくに対して、やさしく何度も水を注ぎ足してくれた。麻婆豆腐は中国仕込みで、ぼくの知る麻婆豆腐とは調味料から違った。めちゃくちゃ美味しい。中辛は耐えられるギリギリの辛さで、汗だくになりながら、思わず店員さんに「中辛って、中国の人は全然辛くないですか?」と聞いたら、「中国人も、辛いですよおー!」と笑ってくれた。
気づけば、ぼくはその中国人の店員さんと、すっかり仲良くなった。彼は文ちゃんと呼ばれていた。文ちゃんは、日本の歴史にずいぶん詳しかった。
「日本も明治時代、国を大きくしたかったですよね。戦争の理由は、資源と土地です。日清戦争も日露戦争も、がんばりましたね。司馬遼太郎『坂の上の雲』も、読みましたよ!」
話をしていて、彼の言葉は力があった。彼は日本に対する偏見を持っていなかった。出身地は、旧満州国が入口とした大連だった。
「国と国が手を取り合うの、もう少し時間かかります。いま人類は、そこまでの領域に至ってないですね。もう少しかかっちゃいますよね」と文ちゃんは言った。
結局1時間ぐらい、ベラベラ話してしまった。「ここのお店、平日はめーっちゃ忙しいですよ」「中国の政府の力、ハンパないね」「去年、GoToで広島行きましたよ!」都心のオフィス街のお店で、静かに食事をして、すぐにお店を出ることになるかなと思っていたら、全然違った。もちろん、毎回そうとは限らないだろう。しかし、虎ノ門のイメージが、たったひとつ、このお店と出会っただけではあるけれど、思い出のある場所に変わった。
最後、文ちゃんが中国の諺(ことわざ)を教えてくれた。
「いいですか、かつおくん。中国にこんな諺があります。『读万卷书 行万里路』日本の漢字では、『読万巻書 行万里路』ですね。万巻とは、膨大な数です。“本を読むことはすごく大切だ”、という意味です。だけど、それよりもほんのちょっと、大切なこと。それは行万里路、つまり“万里の路を行くこと”です。訳すと、旅の経験ですね。でも、旅だけじゃなくていいです。なんでもいいです。いろんな世界を経験することです。それはちょっとだけ、本より大切だよ、という意味です」
ありがとう文ちゃん。ぼくは文ちゃんが好きだな。またお店に来ますと約束して、ようやくお店を出た。
あとは虎ノ門周辺からぐるっと歩く。目の前の一際高いビルが、“虎ノ門ヒルズ”の高層ビルだとは思いもしなかったり、愛宕神社の出生の石段と呼ばれる階段をゼェゼェ登ったり、麻布十番の銭湯に入ったりした。
もちろん、虎ノ門は名前の通り、150年ぐらい前まで城門があった。たった150年の違いかあ。
最後、銭湯に入りたいと思って調べたら、麻布十番に銭湯があったわけだ。地元の人が利用する、とてもいいお湯だった。ごく普通の日常が、心地よく流れていた。たった1日歩いただけなのに、これだけの知らない世界に出会うんだ。湯船に浸かりながら、不思議でならなかった。ぼくはほんとうに、東京を知らないんだなと思った。遠い存在だと思っていた、港区の中心から散策をはじめられて、よかったのかもしれない。もう、「東京」という枕詞は捨ててしまいたいぐらいだ。どこに住んでいようが、人間は、同じ人間のような気がしてならない。星野道夫さんの『旅をする木』が頭に浮かんだ。
人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で、無数の人々とすれ違いながら、私たちは出会うことがない。その根源的な悲しみは、言いかえれば、人と人が出会う限りない不思議さに通じている。—文春文庫『旅をする木』より
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