
今日までの旅メーター
訪れた政令指定都市の区の数 【171/171】
訪れた旧市町村の数【2034/2,101】 総計【2205/2,272】スーパーカブの総走行距離
47851km

今日の旅先のこと
昨日、小豆島より四国の旅を終えて、倉敷市の実家に戻ってきました。そして、倉敷市周辺の旧市町村は、まだ巡っていない地域があり、それらを巡っていきます。さらに今日は、スーパーカブとの旅が最後になる日でもありました。
いろいろ、旅を通して不思議なことがあったように思います。ですが、今日もまた、その不思議さを一段と感じた日です。
たとえば、この日は旅を始めて丸2年でした。ぴったり丸2年経って、スーパーカブとの旅が最後になる。偶然なようで、偶然ではないようにも感じられます。もともと、2年ぐらいで旅を終えることを、事前にざっくりと計画していて、結果として完全には旅は終わっていませんが、カブと一緒に過ごす旅としては、ほんとうに不思議と2年という形になりました。
旅をはじめるにあたって、スーパーカブには保険もかけていました。旅の初日から1年ごとに更新をしていたので、今日は、カブの保険が適用される最後の日でもありました。なんて不思議なのだろう。ああ、確かに今日がラストランなのだと。そう思うと、朝から泣きそうにもなりました。
空は雲ひとつない青空が広がっています。2年前の出発日は雨だったんだよなあ。肌寒くて、どんよりしてたよなあ。そんなことを、思い出しながら進んでいきます。
旧山手村(総社市)(1/6)
倉敷市の実家を出発し、お隣に位置する総社市の旧山手村へ向かいました。総社市は倉敷市と隣り合っていて、とても身近なまちです。中学生の頃は部活で総社市の中学校へ練習試合でよく行きましたし、倉敷市の高校に通っていた頃も、総社市から通学している友人がたくさんいました。
さて、旧山手村については、地図で見ると、もともとはとても小さな村だったようです。かつて山手の素敵な洋菓子屋さんへ訪れたことはあるのですが、そのときは旧山手村に来たというよりも、総社市にやってきたという感覚でした。
その後、市街地を散策してみると、低い山の裾野に落ち着いた集落が広がっています。学校の近くには、一本の凛とした桜の木が咲いていて、ただ咲いているだけではなく、何か雰囲気を持っているようにも感じました。
さらに、もう少し散策を続けていたときのことです。綺麗な丘のような公園に、桜並木が並んでいる気配を感じて近づいていくと、その桜並木のそばで、制服姿の男女の学生さんとお母さんたちの姿が見えました。距離は遠かったのですが、お互いに目が合って、「あっ」と。会釈をし、なんだかとても明るい雰囲気というか、近くでご挨拶をしても、不審者にはならなさそうに感じられて、いつの間にかみなさんのいらっしゃるところへ近づいて、あらためてご挨拶をしました。
そうです。まもなく高校の入学を控えたお子さんたちが、真新しい制服に袖を通し、記念写真を撮っていたのです。男女4人の学生さんたちは小さな頃からの幼馴染で、いままでずっと一緒だったけれど、ここからは、それぞれ選んだ高校へ進学すると。だから、制服も違っていました。自分が選んだ道へ進んでいくことも、こうして集まって一緒に写真を撮っていることも、ぼくはほんとうに胸に響いて、大変おこがましいとは分かっていながらも、写真を撮らせてもらい、後日送らせてもらったのでした。男の子たちとは、別れ際にガッチリと握手を交わしました。きっと大丈夫! と伝えたように思います。
思えばあれから、2ヶ月の月日が経ったわけです。みんな、元気にしてるかなあ。
いろいろ、旅を通して不思議なことがあったように思います。ですが、今日もまた、その不思議さを一段と感じた日です。
たとえば、この日は旅を始めて丸2年でした。ぴったり丸2年経って、スーパーカブとの旅が最後になる。偶然なようで、偶然ではないようにも感じられます。もともと、2年ぐらいで旅を終えることを、事前にざっくりと計画していて、結果として完全には旅は終わっていませんが、カブと一緒に過ごす旅としては、ほんとうに不思議と2年という形になりました。
旅をはじめるにあたって、スーパーカブには保険もかけていました。旅の初日から1年ごとに更新をしていたので、今日は、カブの保険が適用される最後の日でもありました。なんて不思議なのだろう。ああ、確かに今日がラストランなのだと。そう思うと、朝から泣きそうにもなりました。
空は雲ひとつない青空が広がっています。2年前の出発日は雨だったんだよなあ。肌寒くて、どんよりしてたよなあ。そんなことを、思い出しながら進んでいきます。
旧山手村(総社市)(1/6)
倉敷市の実家を出発し、お隣に位置する総社市の旧山手村へ向かいました。総社市は倉敷市と隣り合っていて、とても身近なまちです。中学生の頃は部活で総社市の中学校へ練習試合でよく行きましたし、倉敷市の高校に通っていた頃も、総社市から通学している友人がたくさんいました。
さて、旧山手村については、地図で見ると、もともとはとても小さな村だったようです。かつて山手の素敵な洋菓子屋さんへ訪れたことはあるのですが、そのときは旧山手村に来たというよりも、総社市にやってきたという感覚でした。
その後、市街地を散策してみると、低い山の裾野に落ち着いた集落が広がっています。学校の近くには、一本の凛とした桜の木が咲いていて、ただ咲いているだけではなく、何か雰囲気を持っているようにも感じました。
さらに、もう少し散策を続けていたときのことです。綺麗な丘のような公園に、桜並木が並んでいる気配を感じて近づいていくと、その桜並木のそばで、制服姿の男女の学生さんとお母さんたちの姿が見えました。距離は遠かったのですが、お互いに目が合って、「あっ」と。会釈をし、なんだかとても明るい雰囲気というか、近くでご挨拶をしても、不審者にはならなさそうに感じられて、いつの間にかみなさんのいらっしゃるところへ近づいて、あらためてご挨拶をしました。
そうです。まもなく高校の入学を控えたお子さんたちが、真新しい制服に袖を通し、記念写真を撮っていたのです。男女4人の学生さんたちは小さな頃からの幼馴染で、いままでずっと一緒だったけれど、ここからは、それぞれ選んだ高校へ進学すると。だから、制服も違っていました。自分が選んだ道へ進んでいくことも、こうして集まって一緒に写真を撮っていることも、ぼくはほんとうに胸に響いて、大変おこがましいとは分かっていながらも、写真を撮らせてもらい、後日送らせてもらったのでした。男の子たちとは、別れ際にガッチリと握手を交わしました。きっと大丈夫! と伝えたように思います。
思えばあれから、2ヶ月の月日が経ったわけです。みんな、元気にしてるかなあ。










総社市(2/6)
次に向かったのは、総社市です。旧山手村からは、ほんとうに近いと言っても差し支えありません。
まずはあらためて、シンボルともいえる備中国分寺の周辺を散策しました。何より見事だったのは桜と桃の花々。敷地全体が史跡として守られていているので空がとても広く、青空の下を歩くだけでとっても気持ちがいいのです。そこに、ピンク色の花々が迎えてくれるわけですから、春のうららかさそのままのような風景でした。それに細い遊歩道を歩くと誰かとすれ違うわけですが、ここではハイキングのときと同じように、誰とでも自然に挨拶を交わすような朗らかさに満ちていました。そういうあたたかな場所です。
さらに、美しい田園風景を抜けて、総社市街地も少し散策しました。何度も市街地を訪れたことはありましたが、あらためて歩いてみると、まちの地形が碁盤目状なので、もともとは周辺の地形と同じように田んぼや開けた土地で、そこから開発が進んだのだろうなあと。
次に向かったのは、総社市です。旧山手村からは、ほんとうに近いと言っても差し支えありません。
まずはあらためて、シンボルともいえる備中国分寺の周辺を散策しました。何より見事だったのは桜と桃の花々。敷地全体が史跡として守られていているので空がとても広く、青空の下を歩くだけでとっても気持ちがいいのです。そこに、ピンク色の花々が迎えてくれるわけですから、春のうららかさそのままのような風景でした。それに細い遊歩道を歩くと誰かとすれ違うわけですが、ここではハイキングのときと同じように、誰とでも自然に挨拶を交わすような朗らかさに満ちていました。そういうあたたかな場所です。
さらに、美しい田園風景を抜けて、総社市街地も少し散策しました。何度も市街地を訪れたことはありましたが、あらためて歩いてみると、まちの地形が碁盤目状なので、もともとは周辺の地形と同じように田んぼや開けた土地で、そこから開発が進んだのだろうなあと。










旧清音村(総社市)(3/6)
次にやってきたのは、旧清音村です。清音、という地名は比較的聞き馴染みがあって、理由を考えてみると、伯備線の中に「清音駅」があるからかなあと思ったりします。
さて、あらためて市街地へ訪れてみると、そばには山もあるけれど、空がずっと広く、田園地帯も気持ちよく広がっていて、のどかな風景でした。広々とした田んぼの中では、ポツンとひとりでお父さんがゴルフの素振りをしていて、とっても気持ち良さそう。
また、今回は路線の東側を主に巡りましたが、路線の西側には集合住宅の家並みが広がっているようでした。そして、そのそばにある高梁川を渡ると、倉敷市の旧真備町へと入ります。
次にやってきたのは、旧清音村です。清音、という地名は比較的聞き馴染みがあって、理由を考えてみると、伯備線の中に「清音駅」があるからかなあと思ったりします。
さて、あらためて市街地へ訪れてみると、そばには山もあるけれど、空がずっと広く、田園地帯も気持ちよく広がっていて、のどかな風景でした。広々とした田んぼの中では、ポツンとひとりでお父さんがゴルフの素振りをしていて、とっても気持ち良さそう。
また、今回は路線の東側を主に巡りましたが、路線の西側には集合住宅の家並みが広がっているようでした。そして、そのそばにある高梁川を渡ると、倉敷市の旧真備町へと入ります。











旧真備町(倉敷市)(4/6)
さて、ここからは倉敷市の旅ということになります。旧清音村から高梁川を渡って、旧真備町へ入りました。メインの道路沿いにはいろんなお店が自然に並んでいて、穏やかな日常が流れています。こうして訪れると、もし何も知らなければ、2018年に甚大な雨の被害があったことに、気づかないかもしれないとも思いました。いま、ここに流れているふつうの時間というものが、とても尊いものであると切に感じられます。
市街地を訪れたのち、「まきび公園」へ訪れました。そばに隣接する「たけのこ茶屋」さんは、ちょうど定休日でしたが、公園は桜が満開で、さらには強い春風で桜吹雪が見られる頃で、地元の方たちがあちこちでお花見をしていました。ぼくも混じって、市街地のパン屋さんで買っていたパンをお供に、お昼休み。なんだか、こういうゆったりとした時間を味合わせてもらって、ありがたいなあとしみじみ感じるばかりでした。
さて、ここからは倉敷市の旅ということになります。旧清音村から高梁川を渡って、旧真備町へ入りました。メインの道路沿いにはいろんなお店が自然に並んでいて、穏やかな日常が流れています。こうして訪れると、もし何も知らなければ、2018年に甚大な雨の被害があったことに、気づかないかもしれないとも思いました。いま、ここに流れているふつうの時間というものが、とても尊いものであると切に感じられます。
市街地を訪れたのち、「まきび公園」へ訪れました。そばに隣接する「たけのこ茶屋」さんは、ちょうど定休日でしたが、公園は桜が満開で、さらには強い春風で桜吹雪が見られる頃で、地元の方たちがあちこちでお花見をしていました。ぼくも混じって、市街地のパン屋さんで買っていたパンをお供に、お昼休み。なんだか、こういうゆったりとした時間を味合わせてもらって、ありがたいなあとしみじみ感じるばかりでした。


















旧船穂町(倉敷市)(5/6)
旧真備町から緩やかに坂を越えて、旧船穂町に入りました。ぼくのイメージだと、高梁川を西へ渡った先に船穂はある、という感覚でしたが、今回は北の真備から南へ進んでまちへ入ったので、少し不思議な感じです。
まちなかは平坦で、ぎゅっと住宅地が集まっており、ところどころ場所によって、形成された時期が違うような。たとえば、低い山の麓にある家々は、瓦屋根が多いなあと思ったり。
さらに、高梁川に向かって土手をのぼって振り返ったとき、「ああ、この風景はまさに船穂だなあ」と。河川敷沿いの道も、高梁川の対岸に見えるまちも、いまぼくは船穂にいると感じられる要素のひとつになっている気がするなあと思ったのでした。
旧真備町から緩やかに坂を越えて、旧船穂町に入りました。ぼくのイメージだと、高梁川を西へ渡った先に船穂はある、という感覚でしたが、今回は北の真備から南へ進んでまちへ入ったので、少し不思議な感じです。
まちなかは平坦で、ぎゅっと住宅地が集まっており、ところどころ場所によって、形成された時期が違うような。たとえば、低い山の麓にある家々は、瓦屋根が多いなあと思ったり。
さらに、高梁川に向かって土手をのぼって振り返ったとき、「ああ、この風景はまさに船穂だなあ」と。河川敷沿いの道も、高梁川の対岸に見えるまちも、いまぼくは船穂にいると感じられる要素のひとつになっている気がするなあと思ったのでした。












倉敷市(6/6)
地元の倉敷市です。どこへどう訪れるか、ということは、逆にむずかしいと思いつつ、自分がこれまでに過ごしてきた倉敷での時間というものは、やはり何にも変えようがないもので、今回は生まれたときから15年間過ごした地域を最初に訪れて、その後、美観地区の周辺を散策しました。
かつてぼくが暮らしていたのは、中島、西阿知と呼ばれるような住宅地で、船穂から高梁川を東に渡って西阿知、中島と進みました。西阿知も中島も、新しい道路やお店ができて、風景がものすごく変わったなあというところと、まったく変わっていないなあという場所が交互に現れます。
でも、通っていた中学校から、もともとあった自分の家までの道中にある、当時の友人のおうちの記憶は、まったく錆びれていなくて、不思議だなあと感じるばかりです。
当時の実家のそばには、とても大きな公園がありました。小さな頃はほとんど毎日友だちとここで遊んだり、兄や父とソフトボールや野球の練習をしていました。その公園はいまもあるけれど、大人になって訪れるととても小さく感じられて、木が増えていたり、砂場がなくなっていたり、印象の違いがとても不思議に映ります。この日は春休みだったので、ぼくが過ごしていた頃と変わらないぐらいの年代の子どもたちが、元気に遊んでいたことは、何だかとても安心させられる気持ちになりました。
そして、公園の近くにあった、ぼくがかつて暮らした古い借家は、すでに取り壊されていて、あたらしい戸建の家が建っています。周囲にあった空き地もほとんど無くなり、似たような新興住宅の土地になりました。
そのことはすでに知っていて、今までに何度か訪れたときも、「ぼくが小さかった頃は、もっとたくさん遊べる場所があって、たのしかったと思うなあ」と、正直思っていました。
でも、この日、公園から道路へ抜ける途中の細い道から、かつて自分の家が建っていた土地に建っている新しい家を見たときのことでした。ふと見えたのは玄関の裏側で、そこに、コンクリートが固まる前に刻んだであろう、家族の手形と、日付が刻まれていました。大きな手と小さな手、です。それは、ここではじまった家族の新しい物語の証でした。ハッとさせられました。いま、ここには新しい家族の大切な日常があるじゃないか、と。あの頃の方がよかったなんて、エゴにすぎないと。自分が決めるようなものなんかじゃない。土地と人間の関わりは、そのとき、そこで生きている人たちの人生と一緒に、移り変わっていくものだと。もう、そこにぼくが暮らしていた頃の面影はないかもしれないけれど、そこには新しい、誰かにとっての物語が確かにあったのです。
その後、よく黄昏ていた田んぼも探して行ってみました。中学生ぐらいの頃に見つけた田んぼで、周囲が広々としていて、誰とも会うことがなく、いつもひとりで来ていた場所です。落ち込んでるときとか、落ち着きたいときに訪れていた場所でした。
地図で見てもどこか分からなくて、記憶だけを頼りに行ってみましたが、「ああ、ここだ!」と辿り着きました。その場所は、10年以上経っても区画がほとんど変わっておらず、あの頃と同じゆったりとした田園風景が流れています。「そうそう、この疏水のそばで腰かけてたんだよなあ」と、同じように座りながら、ほっとひと息つきました。田園風景として、もっと美しい場所というものは、日本中にあることでしょう。でも、この場所は、そういう視点では測れないぼくにとっての大事な場所でした。風の音をききながら、ちょっと寝転んでみると、空がどこまでも広くて青かったです。
最後に、美観地区の周辺を散策しました。美観地区へ行くことがあるときのルートはおおよそ決まっていて、倉敷川沿いのメイン通りを抜けたあと、鶴形山にある阿智神社へ参拝して、そこからまた歩いてお墓参りをして、家に帰ります。阿智神社は観光客の方々もたくさんやってくる神社ですが、2年前、この旅をはじめる前に、スーパーカブの交通安全の祈願をしてもらった神社でもありました。そのときいただいた御守りも、2年間ずっと一緒に持っています。あれから月日が流れて、スーパーカブでの旅を無事に終えることができました、という報告をさせてもらうことは、迷信にすぎないかもしれませんが、ぼくにとってはとても大切なことでした。
と、いざ、ゆかりのある土地を巡ってみると、ちいさな日本ですが、自分にとってのふるさとがあるということが、ほんとうにありがたく、奇跡的なことだと思えてなりません。いつか、もっと恩返しができたらよいのですが。もちろん、いまはそのようなおこがましいことは考えず、前に進みましょう。
地元の倉敷市です。どこへどう訪れるか、ということは、逆にむずかしいと思いつつ、自分がこれまでに過ごしてきた倉敷での時間というものは、やはり何にも変えようがないもので、今回は生まれたときから15年間過ごした地域を最初に訪れて、その後、美観地区の周辺を散策しました。
かつてぼくが暮らしていたのは、中島、西阿知と呼ばれるような住宅地で、船穂から高梁川を東に渡って西阿知、中島と進みました。西阿知も中島も、新しい道路やお店ができて、風景がものすごく変わったなあというところと、まったく変わっていないなあという場所が交互に現れます。
でも、通っていた中学校から、もともとあった自分の家までの道中にある、当時の友人のおうちの記憶は、まったく錆びれていなくて、不思議だなあと感じるばかりです。
当時の実家のそばには、とても大きな公園がありました。小さな頃はほとんど毎日友だちとここで遊んだり、兄や父とソフトボールや野球の練習をしていました。その公園はいまもあるけれど、大人になって訪れるととても小さく感じられて、木が増えていたり、砂場がなくなっていたり、印象の違いがとても不思議に映ります。この日は春休みだったので、ぼくが過ごしていた頃と変わらないぐらいの年代の子どもたちが、元気に遊んでいたことは、何だかとても安心させられる気持ちになりました。
そして、公園の近くにあった、ぼくがかつて暮らした古い借家は、すでに取り壊されていて、あたらしい戸建の家が建っています。周囲にあった空き地もほとんど無くなり、似たような新興住宅の土地になりました。
そのことはすでに知っていて、今までに何度か訪れたときも、「ぼくが小さかった頃は、もっとたくさん遊べる場所があって、たのしかったと思うなあ」と、正直思っていました。
でも、この日、公園から道路へ抜ける途中の細い道から、かつて自分の家が建っていた土地に建っている新しい家を見たときのことでした。ふと見えたのは玄関の裏側で、そこに、コンクリートが固まる前に刻んだであろう、家族の手形と、日付が刻まれていました。大きな手と小さな手、です。それは、ここではじまった家族の新しい物語の証でした。ハッとさせられました。いま、ここには新しい家族の大切な日常があるじゃないか、と。あの頃の方がよかったなんて、エゴにすぎないと。自分が決めるようなものなんかじゃない。土地と人間の関わりは、そのとき、そこで生きている人たちの人生と一緒に、移り変わっていくものだと。もう、そこにぼくが暮らしていた頃の面影はないかもしれないけれど、そこには新しい、誰かにとっての物語が確かにあったのです。
その後、よく黄昏ていた田んぼも探して行ってみました。中学生ぐらいの頃に見つけた田んぼで、周囲が広々としていて、誰とも会うことがなく、いつもひとりで来ていた場所です。落ち込んでるときとか、落ち着きたいときに訪れていた場所でした。
地図で見てもどこか分からなくて、記憶だけを頼りに行ってみましたが、「ああ、ここだ!」と辿り着きました。その場所は、10年以上経っても区画がほとんど変わっておらず、あの頃と同じゆったりとした田園風景が流れています。「そうそう、この疏水のそばで腰かけてたんだよなあ」と、同じように座りながら、ほっとひと息つきました。田園風景として、もっと美しい場所というものは、日本中にあることでしょう。でも、この場所は、そういう視点では測れないぼくにとっての大事な場所でした。風の音をききながら、ちょっと寝転んでみると、空がどこまでも広くて青かったです。
最後に、美観地区の周辺を散策しました。美観地区へ行くことがあるときのルートはおおよそ決まっていて、倉敷川沿いのメイン通りを抜けたあと、鶴形山にある阿智神社へ参拝して、そこからまた歩いてお墓参りをして、家に帰ります。阿智神社は観光客の方々もたくさんやってくる神社ですが、2年前、この旅をはじめる前に、スーパーカブの交通安全の祈願をしてもらった神社でもありました。そのときいただいた御守りも、2年間ずっと一緒に持っています。あれから月日が流れて、スーパーカブでの旅を無事に終えることができました、という報告をさせてもらうことは、迷信にすぎないかもしれませんが、ぼくにとってはとても大切なことでした。
と、いざ、ゆかりのある土地を巡ってみると、ちいさな日本ですが、自分にとってのふるさとがあるということが、ほんとうにありがたく、奇跡的なことだと思えてなりません。いつか、もっと恩返しができたらよいのですが。もちろん、いまはそのようなおこがましいことは考えず、前に進みましょう。
















というわけで、今日の散策はここまで。まだ、訪れるまちは3%ほど残っていますが、スーパーカブでの旅は今日が最後になりました。今日までスーパーカブと一緒に過ごした時間のおかげで、いまこの瞬間があります。残すところは、滋賀県、石川県、沖縄県、鹿児島県です。ここからは、レンタカーの旅に移ります。コツコツがんばりましょう!
本日のひとこと
この旅に限らず、これまでのスーパーカブのあらゆる総走行距離は、合わせて101,567kmでした。今日までほんとうにありがとう!このご恩を忘れずに進みます。
この旅に限らず、これまでのスーパーカブのあらゆる総走行距離は、合わせて101,567kmでした。今日までほんとうにありがとう!このご恩を忘れずに進みます。
旅を応援してくださる方へ

今回の旅をはじめる前に、自費出版の写真集「どこで暮らしても」を製作しました。東京23区を1200kmほど歩いて巡り、撮影した一冊です。売り上げは旅の活動費として、活用させていただきます。
写真集の商品ページはこちら
(終わり。次回へ続きます)
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(終わり。次回へ続きます)
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