山口市では親戚のご自宅にて一泊させてもらいました。6年前、市町村一周の旅の初日に大怪我をしたときに、看病してくださったご家族です。もう、ずっと頭が上がらない思いですが、今回も気さくに滞在させてもらいました。今回怪我なくここまで来れたことも、ありがたく。ご恩を忘れず、しっかり進みましょう。ありがとうございました。
今日までの旅メーター
訪れた政令指定都市の区の数 【86/171】
訪れた旧市町村の数【1043/2,094】 総計【1129/2,264】スーパーカブの総走行距離
27967km
今日の旅先のこと
旧小郡町(山口市)(1/5)
母親が山口市の出身で、祖父母の家も山口市だったので、山口県の地名はいくつか昔から耳に残っています。その中で、小郡という地名も、小さな頃よく聞いていました。おそらく、新山口駅が小郡駅だった頃で、小郡駅は2003年に新山口駅へ改名したんですよね。旧小郡町が山口市と合併したのは2005年なので、先に駅名が変わったのち、山口市になったと。この空白の2年間は、「小郡町なのに、駅名は新山口になった」わけです。どんな感じだったんだろう。
そして、旧小郡町の市街地は北側の山が近く感じられて、太い国道9号線もインパクトがあり。また、「旧桂ヶ谷貯水池堰堤」という場所にも。深い山の中にあり、細い遊歩道をひとりでずんずん入っていく。枯葉を踏む音が気持ちよく、沢の音と鳥のさえずりが聞こえる中で、煉瓦の堰堤を発見。大正12年竣工の堰堤とのことですが、森の茂みの中でも十分に存在感があり、光がとても綺麗でした。
母親が山口市の出身で、祖父母の家も山口市だったので、山口県の地名はいくつか昔から耳に残っています。その中で、小郡という地名も、小さな頃よく聞いていました。おそらく、新山口駅が小郡駅だった頃で、小郡駅は2003年に新山口駅へ改名したんですよね。旧小郡町が山口市と合併したのは2005年なので、先に駅名が変わったのち、山口市になったと。この空白の2年間は、「小郡町なのに、駅名は新山口になった」わけです。どんな感じだったんだろう。
そして、旧小郡町の市街地は北側の山が近く感じられて、太い国道9号線もインパクトがあり。また、「旧桂ヶ谷貯水池堰堤」という場所にも。深い山の中にあり、細い遊歩道をひとりでずんずん入っていく。枯葉を踏む音が気持ちよく、沢の音と鳥のさえずりが聞こえる中で、煉瓦の堰堤を発見。大正12年竣工の堰堤とのことですが、森の茂みの中でも十分に存在感があり、光がとても綺麗でした。
山口市(2/5)
レノファ山口FCのホームスタジアム、維新みらいふスタジアムを通過し、湯田温泉街へ向かっていきます。ちなみに最近のレノファ、好調ですよねえ。レノファは現在5位。我らがファジアーノ岡山も追い抜かれました(ファジアーノは6位)。お互い、J1へ駆け上がって欲しいものです。
さて、湯田温泉街は山口市街地にありながら、ほとんど歩いた記憶がなかったので、湯田温泉駅から散策してみました。駅の大きな白い狐に驚きつつ、赤いタイルの道路を歩いていく。そして、「中原中也記念館」へ立ち寄りました。湯田が生家だとは知らなかった。詩人・中原中也の詩集は買ったことがあるのですが、ちょっと難解だなあという印象だったので、あらためてどんな人物か知りたいと。30歳で夭折したことも知らなかったし、簡単ではなかった私生活が、詩のモチーフにもなっているようでした。先日の長門市の金子みすゞといい、詩人の残す言葉は、心の内側の扉をノックされているような気がします。
その後、一の坂川へ。6年前、桜の季節にここへ来ましたが、旅の初日に怪我をし、それを隠蔽するために写真を撮らねばと、足を引きずりながら歩いた場所でした。当時は周囲がドン引きするぐらい足を引きずっていて、そのときの自分を思い出しながら歩きました。戻ってくるのに6年かかったけれど、ちゃんと、戻ってこれたと。
レノファ山口FCのホームスタジアム、維新みらいふスタジアムを通過し、湯田温泉街へ向かっていきます。ちなみに最近のレノファ、好調ですよねえ。レノファは現在5位。我らがファジアーノ岡山も追い抜かれました(ファジアーノは6位)。お互い、J1へ駆け上がって欲しいものです。
さて、湯田温泉街は山口市街地にありながら、ほとんど歩いた記憶がなかったので、湯田温泉駅から散策してみました。駅の大きな白い狐に驚きつつ、赤いタイルの道路を歩いていく。そして、「中原中也記念館」へ立ち寄りました。湯田が生家だとは知らなかった。詩人・中原中也の詩集は買ったことがあるのですが、ちょっと難解だなあという印象だったので、あらためてどんな人物か知りたいと。30歳で夭折したことも知らなかったし、簡単ではなかった私生活が、詩のモチーフにもなっているようでした。先日の長門市の金子みすゞといい、詩人の残す言葉は、心の内側の扉をノックされているような気がします。
その後、一の坂川へ。6年前、桜の季節にここへ来ましたが、旅の初日に怪我をし、それを隠蔽するために写真を撮らねばと、足を引きずりながら歩いた場所でした。当時は周囲がドン引きするぐらい足を引きずっていて、そのときの自分を思い出しながら歩きました。戻ってくるのに6年かかったけれど、ちゃんと、戻ってこれたと。
旧旭村(萩市)(3/5)
山口市から、今度は萩市方面に向かっていきます。萩市は7つのまちが合併しているので、2日に分けて訪れることができたら。最初にやってきたのは旧旭村で、「佐々並市伝統的建造物群保存地区」を訪れてみます。道中はたくさんの車に追い抜かれながら山を越えて、萩市に入ってからはぐんぐん降っていき、景色のひらけた先に、佐々並市のまちなみが広がっていました。遠目からでも山並みと石州瓦の家々が美しい。「ああ、自分は石州瓦が好きなんだなあ」ということもふと思いました。佐々並市は萩往還という江戸時代の参勤交代路が元になっており、ここでは宿場町の役割があったと。現在もその趣を残していて、静かでありながらたいへん美しい集落でした。
山口市から、今度は萩市方面に向かっていきます。萩市は7つのまちが合併しているので、2日に分けて訪れることができたら。最初にやってきたのは旧旭村で、「佐々並市伝統的建造物群保存地区」を訪れてみます。道中はたくさんの車に追い抜かれながら山を越えて、萩市に入ってからはぐんぐん降っていき、景色のひらけた先に、佐々並市のまちなみが広がっていました。遠目からでも山並みと石州瓦の家々が美しい。「ああ、自分は石州瓦が好きなんだなあ」ということもふと思いました。佐々並市は萩往還という江戸時代の参勤交代路が元になっており、ここでは宿場町の役割があったと。現在もその趣を残していて、静かでありながらたいへん美しい集落でした。
旧川上村(萩市)(4/5)
今度は旧川上村へ向かいます。旧旭村から長い下り坂を進んで、萩阿武川温泉公園に到着。芝生では昼からテントを張っている人もいるし、イタリア料理店があって、賑わっている様子。阿武川沿いにこうした場所があるのだなあと。市街地も同じく阿武川沿いに広がり、それぞれの家の庭が立派でした。また、旧川上村は平家の里とも言われていると。確かに壇ノ浦から落ち延びた移動なら、ここに辿り着く人もいたのかもしれないなあと。
今度は旧川上村へ向かいます。旧旭村から長い下り坂を進んで、萩阿武川温泉公園に到着。芝生では昼からテントを張っている人もいるし、イタリア料理店があって、賑わっている様子。阿武川沿いにこうした場所があるのだなあと。市街地も同じく阿武川沿いに広がり、それぞれの家の庭が立派でした。また、旧川上村は平家の里とも言われていると。確かに壇ノ浦から落ち延びた移動なら、ここに辿り着く人もいたのかもしれないなあと。
萩市(5/5)
山に囲まれた旧川上村から、徐々に空がひらけてきたとき、ああ、萩市街地だと。日本海も見えてきて、海はいつでも嬉しい気持ちになります。今回は、「萩反射炉」「浜崎伝統的建造物群保存地区」「堀内鍵曲」などを散策しました。萩反射炉は明治の産業遺産のひとつ。ほかの地域を巡っていて、「萩反射炉」の文字を見る機会が何度かあったので、気になっていました。反射炉は手づくり感があり、ちょっとだけ可愛さも感じたけれど、幕末の萩藩の思いが、熱く込められているのだと。
浜崎伝統的建造物群保存地区は、萩の港町。港ができて、商人が集まって栄えたとのことで、城下町とはまた違う気風があったと。見学可の建物に入ると、「浜崎しっちょる会」の赤いベストを着たおじいちゃんが対応してくれました。
そして、集落の北には定期船乗り場があります。「大島」「相島」「見島」と3つの離島の窓口。ぼくは特に「見島」に憧れていました。立地を見たときに、ここに島があるんだと。今回の旅の主目的ではないため訪れませんが、山形の飛島、石川の舳倉島、北海道の天売島、焼尻島などと合わせて、いつか行きたいと思いは募るばかり。
また、「堀内鍵曲」は城下町の路地なので、カブを停めてから散策しました。萩の城下町って、空が広いなあと思います。それに、観光地というよりも、中学校や高校があり、住宅も自然に残っていて、主体が日常にあることも、心が落ち着きます。堀内鍵曲の周辺は道路も土なので、雰囲気が一層懐かしく感じられました。
山に囲まれた旧川上村から、徐々に空がひらけてきたとき、ああ、萩市街地だと。日本海も見えてきて、海はいつでも嬉しい気持ちになります。今回は、「萩反射炉」「浜崎伝統的建造物群保存地区」「堀内鍵曲」などを散策しました。萩反射炉は明治の産業遺産のひとつ。ほかの地域を巡っていて、「萩反射炉」の文字を見る機会が何度かあったので、気になっていました。反射炉は手づくり感があり、ちょっとだけ可愛さも感じたけれど、幕末の萩藩の思いが、熱く込められているのだと。
浜崎伝統的建造物群保存地区は、萩の港町。港ができて、商人が集まって栄えたとのことで、城下町とはまた違う気風があったと。見学可の建物に入ると、「浜崎しっちょる会」の赤いベストを着たおじいちゃんが対応してくれました。
そして、集落の北には定期船乗り場があります。「大島」「相島」「見島」と3つの離島の窓口。ぼくは特に「見島」に憧れていました。立地を見たときに、ここに島があるんだと。今回の旅の主目的ではないため訪れませんが、山形の飛島、石川の舳倉島、北海道の天売島、焼尻島などと合わせて、いつか行きたいと思いは募るばかり。
また、「堀内鍵曲」は城下町の路地なので、カブを停めてから散策しました。萩の城下町って、空が広いなあと思います。それに、観光地というよりも、中学校や高校があり、住宅も自然に残っていて、主体が日常にあることも、心が落ち着きます。堀内鍵曲の周辺は道路も土なので、雰囲気が一層懐かしく感じられました。
というわけで、今日の散策はここまで。夜は「萩ゲストハウスruco」さんに初めて宿泊し、すごく良かったです。空間も心地良いし、置かれた選書もひとつひとつ意志があって。もちろんお店の方々も優しくて。そして、夜は隣の阿武町に住んでいる同じ歳の友人、りんたろうくんと食事をしました。信念を持って動き続けている友人の声を聞くと、パワーがみなぎる。仕事終わりに時間をつくってくれて、ありがとう!
本日のひとこと
ゲストハウスのスタッフさんとお話をしていると、スタッフさんの母校が、ぼくの母校の隣の高校でした。
ゲストハウスのスタッフさんとお話をしていると、スタッフさんの母校が、ぼくの母校の隣の高校でした。
旅を応援してくださる方へ
今回の旅をはじめる前に、自費出版の写真集「どこで暮らしても」を製作しました。東京23区を1200kmほど歩いて巡り、撮影した一冊です。売り上げは旅の活動費として、活用させていただきます。
写真集の商品ページはこちら
(終わり。次回へ続きます)
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