今日は阪神・淡路大震災から25年。僕は生まれる1年前でしたが、被害に遭われた方々に改めて心よりお悔やみとお見舞い申し上げます。災害を忘れない、希望の灯りを絶やさない、僕たちができる”後の時代につなげる”役目は、シンプルかつ大きなことだと感じます。
そして同日、FMくらしきさんの金曜日のコーナー「週末です。930。」に呼んでいただきました。何度かラジオの経験はありましたが、地元の倉敷でラジオに呼んでいただけたことがとても嬉しかったです。
倉敷の方に、お伝えしたかった話があります。今回のラジオでお話したことの一つですが、文字に残させてください。
同じく災害の話、平成30年7月豪雨のことです。
旅を始めてちょうど100日が過ぎた頃。西日本豪雨が発生した7月、僕は北海道にいました。夜中に総社市での爆発音、高梁川水系が危ないという呟き、ツイッターでずっと見ながら震えていました。翌日から故郷の倉敷市はもちろん、大学のある広島県、すでに訪れた愛媛県の西予市や大洲市、宇和島市などでの被害を見て、本当に心が痛かったです。
旅をやめるべきだと考えました。地元に戻って、真備へ行って、できることをやらないと。
旅を続けるべきだとも考えました。地元は大変だけど、それを無視して、できることをやらないと。
お分かりの通り、僕は後者を選んでいます。どこまでも続く北の大地を、モヤモヤしながら進みました。
数日後、原付に乗ってモヤモヤしている中、「西日本を応援するステッカーを作って、配るのはどうだろう。」という案が頭に浮かびました。僕の原付は倉敷ナンバー、原付の背中に見えやすく貼って、少しでも東日本の方々に西日本を気にかけてもらえれば、寄付や支援につながる気がして。
翌日、函館市の印刷屋さんにアポなしで訪問して事情を説明しました。データをお見せすると印刷屋さんの社長は、50枚の値段で倍の100枚刷ってくれて、連休を挟んで4日かかる納期を丸1日で仕上げてくださりました。
北海道で離れていて、地元にも戻らず、でも東日本の方々が、こっち(西日本)のことをこんなに心配してくださっているんだと、そのことに気づいたとき確かに武者震いがしました。「こんなことしかできないから」と言われてこれほど鳥肌が立つんだと。
100枚のステッカー、色んな方にお渡ししました。野球チームのヘルメットに貼る、自分の楽器に貼る、大きな作品展の看板に貼る、ゲストハウスの壁に貼る、全国どこであれ、たくさんの方々が同じ思いなんだと知りました。そのことを倉敷の方に、遅くなりましたがここで伝えさせてください。
旅の道中、数え切れないほどの方々に「地元の方は大丈夫か?」と言ってもらいました。僕は元気で、大変なのは現地にいる人たちなのに。だけど本当に何人も、何人も、誰かと出会うごとに、西日本と遠く離れた場所でこの言葉をかけてもらいました。そのことを西日本の方々に、改めてここで伝えさせてください。
同年9月の初旬、山形県村山市のゲストハウスにて朝から農作業をしようと集まった方々の中で、一人の女性と仲良くなりました。会話の終わり、妙な親近感から出身地を思い切って尋ねると、
「私は倉敷市真備の出身なの。」
旅で同郷の方に会ったのは意外にも初めてで、しかも真備出身と聞いて驚きました。実家は豪雨の被害を受けていて、真備にも一度帰ったと。山形へ戻ってきても、ずっとずっと気にかけていて。
そのときお渡ししたステッカーが、100枚のうち最後の1枚でした。
倉敷の方へ。僕は旅を続けてしまいました。大変な時期に現地で何もできずごめんなさい。その代わり、この国のどこへ行っても倉敷や豪雨被害のあった地域の方々への応援の言葉を「地元に帰ったら伝えてくれ」と本当にたくさん、直接、受け取りました。そのことを、何度でも伝えさせてください。
「少しでも気にかけてもらえれば」という当初の気持ちは大きな思い違いでした。少しではなく、多くの方々がすでに、大きな思いを抱いていたことに気づかされました。その思いをどれだけたくさん受け取ったかを、倉敷にてラジオのお話をいただいたのでちゃんと伝えたくて。そしてここにも書かせていただきました。
辛いときや大変なとき、この国に溢れている愛を思い出せるように、原付に貼ったステッカーはまだ剥がさずにいようと思います。