ふるさとの手帖

市町村一周の旅

今日までの旅メーター

訪れた政令指定都市の区の数 【133/171】

133/171
77.78%
訪れた旧市町村の数【1734/2,098】
1734/2098
82.65%
総計【1867/2,269】
1867/2269
82.28%

スーパーカブの総走行距離
42460km

旧香良洲町→旧三雲町→旧嬉野町→松阪市→旧飯南町→旧飯高町→旧勢和村、の7つ。
今日の旅先のこと
寒いなあ。でも、昨日よりは暖かく感じます。やっぱり青空で日差しがあるから。風が強くても、日差しの方がうれしいです。

さて、今日は津市の旧香良洲町から、松阪市の旧市町村を巡り、多気町の旧勢和村へ。松阪市の西部は自然に囲まれた暮らしが広がっていて、とても新鮮に感じられた出会いでした。それでは振り返っていきましょう。


香良洲町からすちょう(津市)(1/7)
今朝、路面はおおよそ乾きはじめているけれど、車やカブには雨粒が残っていた。夜には雨が降って、今はカラッと晴れているのだ。

津市の南東、雲出川の三角州上に位置する、旧香良洲町へ
。通勤ラッシュでゆっくりと進み、旧香良洲町に入る頃には車の数も減ってきた。

今回は香良洲神社へ向かう。まもなく着く頃には、背の高い木々が見えてきて神社だと分かる。朝の境内では、砂かきをしている方が二人いて、砂利が綺麗な線を残して均されていた。毎日やっているのだとすれば、すごいなと。

社殿は静かでとても立派だった。御祭神は、稚日女尊。白い布で覆われた本殿正面の布は、参拝時にさーっと風が吹き、前後にゆらゆらと揺れて生きているようだった。手を合わせると手先がとても冷たいことがよく分かる。風に揺れる木々の音もよく聞こえた。駐車場に戻るとカラスが鳴いていたのは、ロマンということにしよう。
香良洲神社へ。
朝の砂かきをされていた。
おからすのかみ。
参拝後、市街地を散策。
水辺だ。
香良洲庁舎。
三雲町みくもちょう(松阪市)(2/7)
雲出川を渡り、旧三雲町へやってきた。笠松河津桜ロードへ向かってみる。もちろん、流石にまだ河津桜は咲いていない。蕾もまだまだといったところ。でも、あと100日も満たない月日で、木々の姿が大きく変わるわけだ。今日は、そのために冷たい西風にとことん耐えているのだね。

また、「松浦武四郎記念館」を訪れた。幕末から明治維新を生きた松浦武四郎は、生涯を旅に生き、さらには蝦夷地調査でアイヌの人々と深く交流し、数多くの本を著している。生涯で歩いた道のりは2万キロ、蝦夷地調査で一日に歩いた距離は60kmとあって、すさまじいなと。北海道の名付け親も武四郎と言われていて、そのことも知らなかったので、とても勉強になった。地域で愛されていることも感じられて、きっと、すごくいい人だったんだろうな。
笠松河津桜ロード。
もう少し。
松浦武四郎記念館。
すごい数字だ。
著名人も知っていたのだなあ。
小学校に武四郎の絵も。
江戸時代の常夜燈も見に行った。
寛政、とある。
嬉野町うれしのちょう(松阪市)(3/7)
嬉野といえば佐賀県、だけではないのだ。読み方もいっしょである。旧三雲町から西へ向かって旧嬉野町の市街地へ。

近鉄の伊勢中川駅周辺は、比較的新しい住宅地だった。マンションも戸建ても同じようにたくさん建っている。近くの県道にはドンキ、すき家、コメダ‥‥と馴染みある店が並んでいて、生活の場だなあと。

また、嬉野市域振興局の周辺も、落ち着いた住宅地だった。駅前ほど新しくはなく、静かな気配だ。庭の松の剪定や垣根がどの家も整っていて、松阪の御城番屋敷を思い浮かべた。つまり、武家屋敷の周辺地域であるということ。鹿児島でもそうだったのだ。鹿児島には武家屋敷がいくつか残っていて、その場所のみならず、少し離れた周辺地域の家々の庭の手入れも、すごく綺麗だった。こうした地域には、美意識があるということかなあ。
旧嬉野町へ。伊勢中川駅近くの公園。
住宅地を歩く。
いろんな庭木が綺麗だった。
かわいい!
嬉野地域振興局。
松阪市まつさかし(4/7)
ここからは、松阪市街地へ。長い信号待ちで空を見上げると、小さな雲が結構なスピードで移動している。

そして、松坂城跡を巡っていく。市営の駐車場に駐輪できて助かった。城の印象はとにかく石垣が立派だということ。道路沿いの石垣から、天守閣周りの石垣まで、どこを見てもかなりの迫力がある。

また、御城番屋敷も歩いてみる。城の護衛をしていた武士たちが住んでいた武家屋敷で、真っ直ぐな石畳が続き、見事な垣根が連なり、その左右に並ぶ家々では今も暮らしが続いている。約90mの長さがある中で、よく見ると、建物の瓦屋根が途切れていないことにも気づいた。しかし、住居としては区切られている。英語で言うならばテラスハウスみたいなもので、特徴的な長屋だなあと。とにもかくにも、唯一無二の姿だと思う。
それに、少し市街地を歩くと、本居宣長の旧宅跡地にも出会った。伊勢国松坂の出身で、十二歳から七十二歳の生涯を閉じるまでの60十年間にわたってここで暮らしていたと。江戸時代の偉人傑士は、地方の出身であれ、総じて江戸を拠点にしている人が多いと感じていたけれど、本居宣長のような人物もいたということは、ある種ぼくにとって可能性が広がった。「そうじゃない人もいたんだ!」と。
松坂城跡。石垣が立派だ。
本丸跡。
市街地もよく見える。
御城番屋敷だ。
今も暮らしがあるって、すごいなあ。
周辺も散策。
本居宣長の旧宅にも出会った。
飯南町いいなんちょう(松阪市)(5/7)
ここからは、山間部へ向かっていこう。山へ進むドキドキも、青空が和らげてくれる。櫛田川沿いに合流してからは、一気に渓谷のような雰囲気になってきた。櫛田川が深く広がり、左岸にまちが広がっている。そして、石積みの棚畑、土の色、家並み、雰囲気はとても味がある。通過していく中で、一瞬あれ? と思ったけれど、沈下橋も見つけた。ここにも沈下橋があるんだ。

道の駅 茶倉駅でひと休憩。展望台まで上がってみると、ここから見える景色は絶景だった。目の前には茶畑と家々が広がっていて、とても穏やかな小盆地の風景だ。今日が良い天気でよかった、と思うばかりの景色で、この風景に出会えてうれしかった。

市街地の雰囲気も懐かしく、道中でも何度かカブを停めて進んで行ったのだった。
旧飯南町へ。うつくしいなあ。
道の駅 茶倉駅。
櫛田川の流れ。
茶畑だ。
市街地にも。
飯南地域振興局。
飯高町いいたかちょう(松阪市)(6/7)
旧飯南町から、さらに山奥へ進んでいく。変わらず途中の道路沿いに広がっている茶畑も見事で、走りながらとても気持ちがいい。

「道の駅 飯高駅」に到着。温泉もあるらしく、大型の道の駅で賑わっていた。ふと見つけた自動販売機には、「古都奈良と伊勢神宮をつなぐ」とあって、「ああ、やっぱり!」と。どうしてここにまちができたのだろう、と考えていくと、お伊勢さん詣りが関わっていることも大きくうなづける。現代とは違うまちの形成のされ方も、面白いなあと思うばかりだ。

そして、資料室は閉館していたものの、小津安二郎の資料室があることも知った。旧飯高町では、かつて小津安二郎が教鞭を取っていたという。小津安二郎が三重県にゆかりのある人物だとは知らなかった。生涯も気になって調べてみると、若い頃に戦時中とも重なっていて、いろいろあったのだなあと。どこでどういうふうに、その人の内側から溢れるものが、培われているかはわからない。選択や運命というものは、不思議なものである。
櫛田川沿いは、香肌峡とも呼ばれている。
道の駅 飯高駅。
茶畑と暮らしと。
珍布峠(めずらしとうげ)への道。
小津安二郎資料室の近く。この辺も、小津安二郎は歩いたのだろうなあ。
周囲の山々は背が高かった。
飯高地域振興局。
勢和村せいわむら(多気町)(7/7)
旧飯高町から櫛田川沿いを下り、旧勢和村へ。多気町の西に位置するまちで、周囲は緩やかな低い山々に囲まれて、冬の落葉と茶色の芝の世界だ。

「ゆとりの丘」に上がってみると、ほんとうに気持ちの良い風景が広がっていた。まちを見渡すことができ、丘そのものを歩くのも気持ちがいい。さらに木々に囲まれた小高い場所があり、そこはかつて城跡だったようだ。

向かいの小学校ではたのしく遊ぶ子どもたちの声が聞こえてくる。ただそこにあるふつうの景色や日常がうつくしく、尊く感じられるばかりである。
ゆとりの丘へ。とっても気持ちがいい!
城跡もあるようだ。
山を登った先の城跡かな。
冬の景色もいいよなあ。
というわけで、今日の散策はここまで。風の強い一日でしたが、今日も知らなかった景色とたくさん出会うことができました。およそ三重県の旅も中間地点。後半もひきつづき、がんばりましょう。
本日のひとこと
寒いですが、ダウンジャケットはウルトラ系を2着、タイツは極暖系を2枚身につけています。
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(終わり。次回へ続きます)

  • Comments ( 2 )
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  1. 写真集を購入しました。旅頑張ってください!無事に終えられるように。

  2. 写真集をご購入いただいたこと、ほんとうにありがとうございます!!😭
    はい、無事に終えられるように、コツコツがんばります!

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