ふるさとの手帖

市町村一周の旅

再び岐阜県へ。恵那市の歴史ある風景を訪ねる。【旧市町村一周の旅(長野県ー岐阜県)|9月6日―518日目)】

再び岐阜県へ。恵那市の歴史ある風景を訪ねる。【旧市町村一周の旅(長野県ー岐阜県)|9月6日―518日目)】

今日までの旅メーター

訪れた政令指定都市の区の数 【87/171】

87/171
50.88%
訪れた旧市町村の数【1391/2,097】
1391/2097
66.33%
総計【1478/2,268】
1478/2268
65.17%

スーパーカブの総走行距離
35690km

旧浪合村→(岐阜県に続く)
旧上矢作町→旧串原村→旧明智町→旧山岡町→旧岩村町、の計6つ。
今日の旅先のこと
長野県飯田市の『Yamairo guesthouse』さんを出発し、今日は再び岐阜県を目指していきます。上記の長野県の旧市町村マップの通り、上伊那郡や木曽地方よりも北側の地域は、中部地方をぐるっと巡ってから訪れることが目標です。戻って来れるように、がんばって進みましょう。

そして、最初に訪れたのは、阿智村の旧浪合村です。
浪合村なみあいむら(阿智村)(1/6)
朝、飯田市から見る伊那山脈は、分厚い雲がかかっていて、それでも真上の空は晴れているので、ちょっとずつ季節が進んでいることを感じました。カブの荷台の表面も、少し濡れています。

さて、阿智村の市街地を通過して、さらに峠を登っていき、旧浪合村へ。阿智村市街地よりも標高は高くなり、山々に囲まれた小さな集落でした。静かな気配がありつつ、場所によっては市街地を流れる恩田川のせせらぎが聞こえてきて、小学校や保育所からは子供の声も聞こえました。スコップや薪もあって、冬はとても寒そうです。

ここにも暮らしがあること。阿智村の視点だけでは、気づけなかったなあと思いながら。
旧浪合村へ。市街地を恩田川が流れます。
ひっそりと。
浪合振興室。
りんごや野菜が売られていた。
薪もいっぱい。
美味しそうだ。
上矢作町かみやはぎちょう(恵那市)(2/6)
旧浪合村から、30km越えの移動になりました。途中、治部坂峠という峠を越えたときは、標高1187mとのことでびっくり。軽い山登りよりも高いところにいるなんて。

まずは愛知県の豊田市に少しだけ突入し、その後、岐阜県恵那市へ。旧上矢作町へ抜けていく道がかなり細くて、途中で合っているか不安にもなりましたが、やはり合っていて、ようやく集落が見えはじめるとホッとしました。

そして、市街地は川沿いにひらかれたまちで、遠くから眺めた景色も、近くを歩いた景色も、どちらもいい雰囲気で好きでした。恵那市の中心地からは南に位置しているので、ここにも暮らしがあると、今まで知らなかったなあと、しみじみ日本の広さを感じた時間でした。
旧上矢作町へ。
とても清々しい風景。
串原村くしはらむら(恵那市)(3/6)
さらに、旧上矢作町から25kmほどの移動になりました。同じ恵那市の山間部でありながら、結構な移動距離です。道中は、矢作川の県境沿いの道をずっと進んでいきました。

そして、市街地へ向かう際にはかなりの急坂を登り、市街地もまちがぎゅっと集まっているというよりも、点在している中のひとつの集落という感じです。

キャンプ場とグラウンドゴルフ場があり、グラウンドゴルフ場ではご年配の方たちがプレーを終えたあとのようで、休憩スペースに集まって、雑談が盛り上がっていて、その光景がどちらかというとキャンプをしているようでもありました。そばには温泉があり、みなさん送迎バスに乗っていったので、入浴されるようです。
串原郵便局。
キャンプ場かな?
グラウンドゴルフ場に、年配の方々がたくさん。
串原振興事務所。
地蜂というのは、クロスズメバチのことだそうです。
明智町あけちちょう(恵那市)(4/6)
旧串原村から移動し、旧明智町の市街地が見えたとき、とても大きな町だなあと。山に囲まれた中で、びっしりと住宅地が広がっていました。

そして、旧明智町の中心地に位置する、日本大正村と呼ばれる地域一帯を散策しました。
名前の通り、レトロな町並みが残っていて、旧明智町役場や大正ロマン館など、レンガ調の橋やハイカラな建物が、とても懐かしい。

明治と昭和の間、大正時代は15年間です。その短い時間に生まれた温かさというものに、直接立ち会ったわけではないけれど、こうして残されたものに出会うと、感じることができるように思います。
大正村浪漫亭。館内の雰囲気も大正レトロでとても良かったです。
懐かしい雰囲気。
旧明智町役場。
丘の上に、大正ロマン館。
旧明智町は、明智光秀公生誕の地です。
町並み。
大正村初代村長の、高峰三枝子さんの銅像。
明智駅。
山岡町やまおかちょう(恵那市)(5/6)
小さく山を越えて、旧山岡町へ入りました。山岡駅まで向かってみると、「寒天と陶土の里」と。

旅中はネット環境を切っているし、その場ですぐに調べないタイプのぼくは考えました。

「寒天の原材料って、テングサじゃなかったっけ? テングサって、海だよなあ…? 勘違いかな」と。

そして、散策を終えてから調べてみると、やはり寒天の原材料は海藻のテングサで、旧山岡町ではそのテングサを用いた細寒天が、特産物になっているのでした。

冬場、山岡では晴れが多く、降雪が少ないうえ、真冬は氷点下越えの厳しい寒さになるそうです。この大きな寒暖差を利用して、ところてんの水分を凍らせて乾燥させていくのだと。

海で生まれたものが山で形づくられていく。そう考えると、地形というものは偉大です。

また、市街地を散策したのちに、西に位置する「道の駅 おばあちゃん市・山岡」にも行ってみました。ここには巨大な水車があるとのことだったのですが、想像以上に大きくて、観覧車みたいだと思いましたし、近くまで行ってみると、かなり勢いよく回転するのだなあと。
山岡駅と、寒天の資料館で、かんてんかん。
寒天らーめん、いいな。
穏やかな土地です。
道の駅へ。大きな水車だ。
岩村町いわむらちょう(恵那市)(6/6)
最後にやってきたのは、旧岩村町です。まずはなんといっても、岩村城跡。ずっと行ってみたい場所でした。なぜなら、日本三大山城と呼ばれていて、その他ふたつの備中松山城、高取城には行ったことがあったから。

そして、天守の標高は717mと、日本一高い城という名称もあるようです。これもすごいなあと思っていました。

いざ、旧岩村町に入ると、雄大な山と町並みが見えて、とても美しかったです。城跡には、かなりの山道を登るのかなと思っていましたが、急坂はあったとはいえ、比較的道も安定していて、無事に駐車場まで行くことができました。町並みは低く遠く、まさに山城という感じ。本丸周辺は綺麗に芝も刈られて、木が何本か生えており、何より山に溶け込むような石垣が見事でした。

その後、城下町も散策していくと、電柱が埋められていて、味わい深い城下町がそのまま感じられました。小さなお店も軒を連ね、すうっと奥まで伸びています。ふと足元を見ると、標高520mという文字が刻まれており、なるほど、城下町そのものも、標高が高いのだなあと。

何より、お店の壁や玄関前には、「佐藤一斎」という岩村藩出身の儒学者の言葉が、たくさん飾られていました。地元の方々が、佐藤一斎をとても大切に思っているのだなあと感じられて、それはささやかなことかもしれないけれど、とても素晴らしいことだと思うのです。佐藤一斎のことも、もっと勉強したいと思いました。

そして、勝川家や土佐屋、木村邸など開放されている建物にも訪れてみました。城下町を形成する際につくられた天正疎水という水路が、今も家の下を通過していて、その流れはとても清らかでしたし、400年以上も前の水路がこうして現役で残っていることに、岩村という土地の凄さを感じたのでした。
岩村城跡へ。
石垣が見事でした。
山の上だなあ。
本丸跡。
そして、岩村城下町へ。
とても美しい城下町。
あちこちに、佐藤一斎の言葉が。
見学できる建物へ。
家の下を流れる天正疎水。
別の建物にて。天井が高かった。
というわけで、今日の散策はここまで。ここからは岐阜県をしばらく進んでいきます。コツコツ、一歩ずつがんばりましょう。
本日のひとこと
服が破れてしまいました。晴れの日も雨の日も過ごした服。最後まで、まっとうしてくれたと思います。
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今回の旅をはじめる前に、自費出版の写真集「どこで暮らしても」を製作しました。東京23区を1200kmほど歩いて巡り、撮影した一冊です。売り上げは旅の活動費として、活用させていただきます。
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(終わり。次回へ続きます)

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